本書を読みながら、その内容についてのレポートをまとめて来たが、第4章まで読み進めて、著者の諸富先生の政策的提言である「積極的労働市場政策」による「社会的投資国家」を目指すという方向性が明らかになってきた。政府が人的投資を行う事によって、所得格差の拡大を抑え、同時に「非物質化的転回」を起こしつつある現代の資本主義社会における経済成長を目指すというこの政策方針については、個人的にも大変賛同を覚えるところである。
自分自身の生い立ちを考えても、経済的に恵まれない母子家庭に生まれた私は、様々な社会的支援のおかげで、2つの大学で恵まれた専門教育を受ける事ができた。公立高校と2つの国立大学での10年以上の間、私は日本育英会、大阪府育英会の特別奨学金、さらにある児童憲章に関わる団体からの奨学金を受ける事が出来た。そして、当時の2つの国立大学での授業料は今では信じてもらえない位の低額であった。英語学科と歯学部との計10年間の授業料は、何と月額1,000円であり、つまり、10年間におよぶ専門教育の学費は、総額で12万円!だったのである。これはつまり、国家が政策として、能力を認めた人間に対して「教育という投資」を行ったという事で、それはまさに諸富先生の提唱される「政府による人的投資」政策そのものである。
私は以前より、自然人として生まれた人間が「社会的人間」になるのは教育訓練によってであると言う思いを強く感じていた。何者でもなかった私は、10年間の大学での専門教育を受けて、英語を中心にした社会文化全般の基礎知識と歯科医師としての専門知識と技術を得て、いささかなりとも社会に対しての貢献もでき、それに対する報酬を頂ける存在になりえたのである。
経済的に恵まれない人間に、福祉として一時的な現金支給をしても、それは単に、一時しのぎを可能にしても、その人間の生活そのものを変える事は出来ない。下手をすれば、その人間は、そのような財政支出に頼り続ける社会のお荷物にもなりかねない。しかし福祉のための「消費」としての財政支出ではなく、それを社会に貢献できる能力を身につけるための教育的「投資」として支出すれば、それは投資された人間がその後社会に価値をもたらす存在になって、その投資が新たな価値を生む可能性がある。諸富先生の政策提言を正しく理解出来ているとすれば、私の個人的経験はその現実的実例となりうるのかもしれないと感じている。
さらに付け足せば、学生当時の私を経済的に支えてくれたのは、奨学資金と超低額な学費に加えて、一時期には10人を超えた家庭教師や個人塾での収入であった。つまり私は、モノの生産の経済ではなく、知識の伝達と開発という形の「無形資産」が生み出す付加価値によっても支えられていたわけである。前稿(『半世紀の時を超えた出逢い』)でも書いたように、その当時の生徒さんの一人が有り難い事に、後に大学教授としてさらに知識の生産に関わり、言わば無形資産の生産の連鎖反応の形になっていた事も感慨深い。
《以下、今回提出のレポート》
諸富 徹 著『資本主義の新しい形』研究レポート(4) 10/27 ‘22
兵庫県立大学経済学部大学院 松賀正考
第3章まで「資本主義の非物質化的転回」という新しい概念をもとにした視点から各種の広範なデータを元に詳細で理論的な議論が展開されてきたが、その分析研究から、第4章では、一転かなり大胆な政策的分析と提言が行われている。つまり、この第4章「資本主義・不平等・経済成長」では前章までの分析の結果として、現代の資本主義が「非物質化的転回」を起こしている中で資本主義の特徴的欠陥の一つである社会的格差の拡大をいかにして防ぐべきかという命題に対する政策的提言を行なっている。
そしてそれはベーシック・インカム制度のような事後的平等を図るのではなく、現代資本主義の際立った特徴として現れている「非物質化的転回」の流れに沿って、国民にそのような潮流に対応し新しい産業化の中で有用な人材として活躍できるような教育訓練を施す役割を国家が果たし、事前的平等を目指すべきであるとする。そして、このような政策を方針とした国家を「社会投資的国家」と呼び、そのような方向性を目指すべきであると主張している。
目次構成に従えば、この第4章の最初の第1節「現代資本主義と不平等・格差の拡大」の中の<1.「経済の非物質主義的転回」は何をもたらすのか>では、現在の資本主義において経済的価値の源泉は有形資産から無形資産へ大きくシフトし製造業はますますサービス化/情報化/デジタル化/脱炭素化しつつあり、このような「非物質主義的転回」に成功した国家、産業、企業が生き残るとする。そして、この流れを決定づけるのは人的資本の質、つまり人間の知識、学習能力、創造性、柔軟性、コミュニケーション能力であり、人的資本の重要性がきわめて高くなる。このように労働者に求められる能力が変わると、新しい需要水準を満たす人への労働需要は増加し、そうでない人への労働需要が縮小することになる。さらに「人工知能(AI)」の台頭も相まって社会の経済的格差が拡大する可能性が高くなるとする。
<2. 不平等と格差の拡大>では、この問題に関する画期的な研究であるピケティの『21世紀の資本』から、歴史上すべての時期で「資本収益率(r)>「経済成長率(g)」が成立しており資本主義においてほぼ常に資本の所有者に富を集中させるメカニズムが働いてきたという事実が明かされたとする。そして、第二次大戦から1980年代頃までは、(おそらくケインズ政策や累進的な課税による所得再配分政策などにより)一時的にある程度緩和される時期はあったが、その後、再び社会の経済格差は拡大しており、1980年代以降、再び「r>g」関係が復活したとされる。このような傾向についてはOECDやIMFによる調査研究でも同じような結果が認めらるとされ、国際機関も2010年代以降、格差拡大の傾向について警告し、各国政府に再分配政策の強化を促しているとされる。
<3.何が格差拡大を生み出しているのか>では、この格差拡大の原因についての検討が行われている。新自由主義的政策への転換や経済のグローバル化への対応としての『有害な税競争』による法人税率の低下、経済のデジタル化・ネットワーク化の中でのGAFA等の新たなプラットフォームでの巨大企業の勃興などによる新たな独占問題の発生等については既に論じられているが、そのような要因以外に、第3章までで論じられてきた「資本主義の非物質化」との関わりについての検討が行われている。このような視点からの代表的研究として、MITのオーターらの業績が紹介され、過去30~40年にわたる技術進歩が経済を成長させてきた一方で、労働需要の構造の変化を生んだとされる。すなわち事務職・販売員などの中間技能職の労働需要が大きく落ち込み低技能職と高技能職の労働需要を引き上げる「両極化」現象により「先進国中間層の没落」が進んだが、さらに低技能職種も中間技能職層との争奪の結果、賃金における高技能職の「一人勝ち」になった。すなわち、激しい技術進化による「経済の非物質化」の流れは、高度な専門的知識や技術を持つ高技能職に需要が集中することで、社会の経済格差の拡大につながったとされる。
<4. 人工知能(AI)は格差を拡大させるか>では、最近、大きな社会的注目を浴びているAIと経済格差の問題について検討している。アメリカの職業の約半分がAIによって置き換えられるとして世界に衝撃を与えたオックスフォード大学のフレイとオズボーンの研究とその予測は過大であるとしたOECDの研究のいずれでも、人工知能は低技能で低賃金の職種により大きな打撃を与えるという結論では一致しているという。それはつまりAIの発展はやはり社会格差の拡大につながるという推測である。
<5. ベーシックインカムより人的資本への投資を>の小節では、以上のようなAIを含む現代の激しい技術進化による経済格差の拡大に対して、いかなる政策的対応を取るべきかについて論じられている。このような経済格差の拡大に対するきわめて過激で大胆な政策的提案が、ベーシックインカム(BI)である。これは、全国民に一律の現金給付を国家が行うという制度であるが、私自身それはあまりに空想的で非現実的な政策であると思わざるをえない。著者もまた、このBI政策に対しては、批判的であり、いくつかのメリットがあるのは確かではあるが、その理念の面でも政策的・実務実行可能性の面でも問題が大きいとしている。そして巨額の予算を費やすBIは事後的な所得再配分政策であり、資本主義の非物質化という大きな構造変化への積極的対応にはならず、労働需給の構造変化による経済格差の拡大に対する対応策ではありえない、とする。
そして、著者は人的資本への投資により政府が個人の能力形成に責任を持ち、少なくとも、競争条件を均等化させる「事前の公平性」を確保する政策が必要であるという。そして政府が人々の能力形成の領域でより大きな役割と責任を果たし、人々の適応能力を高め、労働市場への積極的な参加を促す条件を整備することにより結果的に事後的救済の必要性を小さくする。このように政府が十分な財政支出を行なって人的資本に対して戦略的に投資する国家を「社会的投資国家」と呼び、経済成長を促しつつ雇用を確保し、社会的公平性を保つには人的資本投資を重視する「社会的投資国家」への転換が必要である、というのが著者の主張である。
続く第2節では、「公共投資国家」・「福祉国家」から「社会的投資国家」への転換による具体的な政策的提言が行われている。まず、定義に関して
<1. 社会的投資国家とは何か>の小節によると、この概念は、ブレア労働党政権のブレーンであった社会学者のアンソニー・ギデンズの提議するものであった。サッチャー政権以降の新自由主義に対抗し、グローバル化時代に適合した従来の福祉国家とは異なる国家政策として左派・リベラルの観点から提唱されたものであり、「生計費を直接支給するのではなく、出来る限り人的資本に投資する政策手段」と定義されている。しかし、この概念は早くも1940年代にスウェーデンにおけるノーベル経済学者のミュルダールの人的資本論や経済学者レーンとメイドナーによる「積極的労働市場政策」の提唱に起源を持つものであり彼らによって「社会的投資国家」の概念が形成され、これは実際に1950年代末頃からスウェーデン社会民主党政権時代に実行に移されたものである。この政策が1980年代のグローバル化時代以降に新自由主義とは異なる方向性の国家像として再発見、復活したものと言える。この主張をまとめれば、グローバル化時代の国家は、税制や財政支出による「分配国家/福祉国家」から、人に投資を行うことで長期的な社会の発展を促す「社会的投資国家」に転換しなければならないということになる。そしてこの「社会的投資国家」の政策は経済の供給側を重視し、社会に必要な財政支出を「投資」として長期的持続的に行おうとするものである。この政策は短期的視点から景気に対する反循環的な財政政策の実施を行うケインズ的経済政策とは対照的なものである。またケインズ的経済政策では、需要と供給を均衡させるための財政支出の規模が問題であり、その中身は重視されない。これに対し「社会的投資国家」ではその支出の中身、何に投資すべきかが決定的に重要であるとされる。
また供給側の重視という意味では、サプライサイド経済学と共通する面もあるように見えるが、サプライサイド経済学が国家の役割をミニマムにしようとする方向性であるのに対し、「社会的投資国家」政策では、国家が人的資本、自然資本、社会関係資本に資金を投じ、近年の経済構造の変動に適応するために国家が積極的な役割を果たそうとする姿勢である点が異なる。また、「社会的投資国家」政策は究極的に公正な社会の構築を目標としており、これまでの福祉政策のように国家の財政支出による給付ではなく人々に教育や職業訓練の形で「人的資本投資」を行うことによって所得を得る機会を均等に保証することを目指している。私自身の経験からも、人間が「社会的」人間になるのは教育によってであると強く思うし、その事に国が政策的支援をするのは大変望ましく、その方向性には賛同を覚える。そしてまたこの人的資本投資は経済構造の知識経済化への対応という面でも有用な政策である。
この「社会的投資国家」政策に対しては、2種類の批判がある。一つは、この政策が労働や収益と結びついた成長論的傾向が強く、従来の「福祉国家」的な支出が抑えられることによって所得の再配分機能が弱められる可能性があるというものである。もう一つは、ギデンズによる「社会的投資国家」論での投資対象の範囲が狭すぎるのではないか、というものである。「福祉国家レジーム論」で著名なエスピン=アンデルセンは直接的な人的資本への公的支出のみならず例えば失業給付などの現金給付も職業を円滑に移るためのクッションの役割として「生産的」とみなすべきだと言う。また、子供と女性への投資も社会的投資としてきわめて重要としている。
結論的にまとめれば、社会的投資論によってそれまで「消費」とみなされていた人への財政支出を将来的に社会的収益を生み出す「投資」とみなされるようになったと言える。この社会的投資論の意義は福祉国家を理論的に防御するだけではなく、人的資本投資に対する国家の役割と責任を明確にし、人的資本投資が成長促進機能という積極面を持つことを明らかにした事である。
資本主義が非物質的転回を遂げつつある現代において、この社会的投資は二つの意味で重要性を高めているという。一つには、無形資産投資の重要性が高まってきたために、それに価値を付与できる人的資本への投資の重要性がより高まってきたことである。第二に資本主義の非物質主義的転回は、AI化によって加速されつつ、格差をさらに拡大していく可能性が高い。社会的投資はそのリスクに対処し中・低技能労働者の雇用可能性を高めることによって格差の拡大を未然防止し、それはまた国家による事後的救済の必要性を縮小することにもつながる、と言う。
次の小節<2. 成長戦略としての人的投資政策>では、この社会的投資概念を生み出したスウェーデンの近年における経済状況の推移を実例として、人的資本投資が経済成長戦略として働いてきたことを示している。スウェーデンは言うまでもなく福祉国家の典型国として有名であるが、その高度な福祉システムを維持するために国民の税的負担も大きく、そのような福祉政策が経済成長の阻害要因になる、すなわち福祉と成長はトレードオフ関係にあると思われてきた。しかし、現実を見ると、2018年時点での国民一人当たりのGDPは日本よりも約19%も高い45,740ドルである。また、20世紀末から現在にいたるまで、ほぼ全期間で、その経済成長率も日本よりも1~3%高い。そして、スウェーデンの人的資本投資は、単に社会保障政策としてだけでなく経済成長戦略を実現する政策手段体系の一環として位置づけられている点に特徴があると言う。そしてその産業政策で興味深いのは、スウェーデン政府がかたくなに「労働者は守るが企業は守らない」という原則を堅持していることだと言う。それは具体的には、競争力を失った企業の救済はしないが、その企業が倒産して発生する失業者は政府が責任を持って守り競争力のある別の企業に移るまでの期間、手厚い失業給付を行い、職業訓練で労働者のスキルアップを支援し、転職を後押しするということである。著者によれば、スウェーデン政府は競争力を失った企業の救済は低生産性企業を温存する事になり、結局は産業の新陳代謝を妨げることでスウェーデン経済を弱体化させると見切っているという。そして、このような政府による産業構造転換を通した高度化と生産性向上への姿勢がスウェーデン経済の高い成長率の一因と考えている。これとは対照的に、日本の企業経営者や経済産業省の産業政策は変化を恐れ変化への対応能力と柔軟性を欠くために利益率で低迷しているという。このような消極的姿勢はデジタル化や再生可能エネルギー問題さらには脱炭素化やカーボンプライシングへの対応でも繰り返されており、産業の構造変化が迅速かつ大規模に起こる時代においては熾烈な産業競争に遅れを取り敗北を重ねるのではないかと考えている。
次の小節<3. スウェーデンの良好な経済パフォーマンスの秘密>においてはスウェーデンの経済政策・産業政策において絶えざる産業構造転換、企業の事業構造転換が行われるメカニズムとして「レーン=メイドナー・モデル」と呼ばれる政策があるとし、その説明がなされている。その政策の基本には「同一労働・同一賃金」の原則があるのだが、これは我が国において正規労働者と非正規労働者の間の問題として理解される傾向があるが、スウェーデンの場合はさらに徹底して産業部門、性別をも超えてこの原則が貫徹されているところがその特徴である。この原則によって常に低収益企業には収益向上への圧力がかかり、低収益企業は市場からの退出を迫られ、高収益企業は余剰を元に事業を拡大できる。そして労働力が前者から後者へ移動する際スウェーデン政府は低収益企業で解雇される労働者を手厚く保護すると同時に、積極的労働市場政策の下で教育訓練投資を行い彼らが高収益企業に転職できるように支援するのである。このような形で労働力が前者から後者に移動することで、産業構造が常に変化し、高度化されるとされる。
本節の最後の小節<4. 経済安定化政策としての積極的労働市場政策>では、このようなレーン=メイドナー・モデルが生産性向上と産業構造の転換/高度化を進め高い経済成長と同時に賃金格差の縮小に成功しただけでなく経済安定化政策としても機能した事を示している。積極的労働市場政策の主目的はあくまで人的資本への投資なのであるが、この政策が導入されてから現在に至るまでの経過を見ると、幾度かの経済危機を経るたびに、景気の波に対する反循環政策/景気安定化政策としても機能していることが明らかになって来た。景気が下降し失業者が街にあふれている時に、積極的労働市場政策の拡大が図られ、彼らに失業手当の給付と職業訓練の機会が与えられることで所得の下支えが行われることになるが、このメカニズムが無ければ、民間消費はさらに落ち込み景気悪化はいっそう激しいものになったと思われるからである。そして積極的労働市場政策は経済安定化という「量的側面」のみならず労働の「質的向上」にも資する貴重な政策手段であるという。もし、この政策がなければ、労働者は失業手当をもらうだけでスキルアップの機会は与えられない。政府が経済危機下にあっても職業訓練を通じて労働力の質向上に注力したことで、労働力の「質的向上」が進み、それは経済危機後の産業構造転換への備えにもなったとされる。