中之島ー運命分岐の地

前投稿にも書いたように、大阪市の都心部のオフィス街の中之島に『大阪中之島美術館』が長い準備期間を経て、ようやくオープンしたと言う情報を聞いて、その開館初日に訪れました。この中之島地区は、有名企業の本社や拠点ビルが集中したビジネス街ですが、堂島川と土佐堀川に挟まれ、その河岸に面し、大きい公園や劇場ホール、国際会議場等の施設やシティホテルもあり、大阪都心の中では比較的落ち着いた雰囲気の街並みです。

実は、私にとって、この中之島は極めて思い出深い青春時代を過ごした地であり、ある意味で、長い人生の分岐点ともなった地区なのですが、40年に及ぶ神戸での生活が長くなって、案外その当時の時代を忘れて過ごして来たように思います。今回の美術館訪問をきっかけに久しぶりに中之島を訪れ、まさに青春時代の学生生活の様々な思い出が蘇り、懐かしい気持ちに浸りました。

半世紀前の中之島には大阪大学の古びた本部建物があり、ちょうど50年前、阪大の入試合格発表は、この本部建物の入り口に掲示されていました。今はもう入試合格発表はネット経由のウェブで速報され、毎年TV報道を賑わした合格者掲示板の前での悲喜こもごもの風景は形だけのものになっているように思いますが、当時は、この人生を分ける重要な情報の発表の場はまさにこの大学本部棟の掲示板しかありませんでした。50年前の春、大きな期待と押し潰されそうな不安を抱えて、私はこの中之島の阪大本部の掲示板を見に来ました。その合格発表の掲示の中に確かに自分の受験番号を見つけた時の喜びと激しい興奮は今も忘れられないものです。

実は、この歯学部受験は、私にとって2度目の大学受験で、20代の人生を賭けた挑戦でした。私が大阪の高津高校を卒業して最初に入学したのは大阪外国語大学(現 阪大外国語学部)でした。この時、母子家庭の一人っ子だった私は、第一志望校の受験が、唯一の家族である母親の胃がんの入院・手術と重なる大混乱の真っ只中で、本来の志望ではなく何の事前の調査もなく、大学には失礼ながら全くの滑り止め意識で受験した外大で学ぶ事になりました。この外大時代は、手術後の母親との生計を私の奨学金とアルバイト収入で支えると言う経済的には厳しいものでした。しかし初めての大学生活は講義からもクラスメイトからも様々な刺激を受け、それなりに楽しく充実したものでした。この頃の生活については、またさらに稿を改めたいと思いますが、母親との二人の穏やかだった生活は、3回生が終わった春休みに、母親のガンの再発と45歳の早逝で突然終わる事になりました。そして4回生の春を私はただ一人の天涯孤独の身で迎える事になったのでした。大学入学以来、私の意識では、大学を卒業すれば一日も早くしかるべき会社に就職し社会人となって、幼い頃から私を育てるために病弱の身で孤軍奮闘して来た母親を安心させる事が、いつしか目標になっていたように思います。しかし、その目標は母親の急逝によって意味を無くしてしまいました。

4回生の春から一応、今で言う『就活』にも向かい始めましたが、気持ちはまとまりません。それに、現在でこそ、本人そのものの評価が基本で家庭環境や出身等のプライベート面は問わない建前になっていますが、半世紀前の日本では両親もおらず何のバックグラウンドも持たない一青年にとって就活は極めて厳しいものでした。書類審査だけでお断りが来た会社は何社あったでしょう。面接まで漕ぎ着けても対応は厳しいものでした。

そんな経験もあって、私は自分の人生の方向性を根本から考え直そうと思いました。そもそも、内面自己主張の強い自分には、会社等の組織に入って、その一員として暮らす事は、若気の至りですが、『組織の歯車』になる事であり、それは避けたいと言う思いが芽生えて来ました。

そして、その頃私にとっての憧れの存在は、当時〈現代の森鴎外〉とも称された文筆家の加藤周一氏でした。彼は、文学・芸術はもとより社会・歴史・政治・国際関係等驚くほど広範な分野を横断した評論活動を展開していました。どこまでも客観的で透徹した論理的思考で複雑な問題を鋭く分析し、新しい視界を切り拓く視点を与えてくれる彼の著作を私は読み漁っていました。

実は、彼が〈第二の森鴎外〉と呼ばれた理由は、彼の広範な視野を持った著作によるだけではありませんでした。明治の森鴎外が陸軍軍医として軍医総監までキャリアを上り詰めながら活発な文学活動をしたように、加藤周一氏も東大医学部を出て血液学の研究者としてのキャリアの中で文学や評論活動を進めていたのです。〈知の巨人〉とも言うべきこの二人はともに医学者としての経歴を持って、幅広い文化的活動をした、と言う点でも共通するところがあったのです。

〈加藤 周一は、日本の評論家。医学博士。 上智大学教授、イェール大学講師、ブラウン大学講師、ベルリン自由大学およびミュンヘン大学客員教授、コレージュ・ド・フランス招聘教授、ブリティッシュコロンビア大学教授、立命館大学国際関係学部客員教授、立命館大学国際平和ミュージアム館長などを歴任。
『文学とは何か』(1950年)『雑種文化―日本の小さな希望』(1956年)『羊の歌―わが回想』(1968年)『日本文学史序説』(1975年 – 1980年)『日本人とは何か』(1976年)『夕陽妄語』(1984年 – 2007年)『日本文化における時間と空間』(2007年)〉

そして、若さの持つ単純なストレートさで、私もまた医学的キャリアを持った上で、文化的研究をしたいと思い立ったのでした。言わば、文化的ミーハーとして、憧れる対象を真似た人生を考えたのだと思います。しかし、そう言う夢や憧れからスタートしたものの、その取り組みに関して私は極めて現実的でした。これまでの学生生活で、英語と英米文化に集中した学習をしていて、いきなり理系の医学分野に進むのは、余りにも大きなチャレンジであり、並大抵の努力では難しいだろうと言う事は分かっていました。そこで、私は4年次で卒業に必要な単位を取得するがあえて卒業論文を出さず、1年間、自主留年する事にしました。そして、その1年間を卒業論文の作成と2回目の受験勉強に充てる事にしました。幸い、経済的には、当初の雑多なアルバイト生活から時間的に効率のよい家庭教師や塾教師中心に移行していました。高度経済成長の真っ只中にあった日本の教育熱の高まりの中で家庭教師先からは次々の紹介があり、いつの間にか、私は多数の家庭教師先の収入だけで当時の大卒初任給近くの収入を得られるようになっていました。だから、一年の自主留年も、その先のさらなる大学生活も経済的に可能だと踏んだのです。医学系の大学を目指すとして、当然経済的には国公立しか無理ですが、医学部は余りにハードルが高いと考え、阪大歯学部に的を絞り、理系科目を中心にした受験勉強に突入したのです。それは私なりには現実的なプランのつもりでしたが、一般常識的に考えて、それがとんでもない非現実的な計画である事は分かっていました。だから、私はその1年間、その事を誰にも明かさず、誰とも相談しませんでした。全ては、結果を出してからと考えました。(当時の苦闘の日々を音楽の思い出とともに回想した投稿も以前書いています・・・『音楽から蘇る記憶』)

その言わば非常識な一年の結果判定がこの中之島の地で下されたのでした。合格者掲示板の中に自分の番号を見つけ、ただ一人で、喜びを噛み締め、興奮でぼんやりした頭で、ビル街のビジネスマンの波の中を駅まで歩いた時の光景は今もはっきり頭の中に蘇る気がします。

就職活動では辛い経験をし、ビジネス社会からは半ば拒否された(いや、実はある外資系の大企業から内定は頂いていたのですが)が、私は、自分の思い描いた夢に向かって進んで行ける、と言う大きな喜びと安堵感に浸って、この中之島のビル街を歩いたのでした。

久しぶりに訪れた中之島で半世紀前の懐かしい思いが蘇り、感慨深いものがありました。そして、考えてみれば、現在の私は、遠い遠い廻り道をして、若い頃に憧れ思い描いた生活に形だけは辿り着いているのかな、と思いました。もちろん、当時憧れた高名な文筆家とは全くレベルは違いますが、若さの真っ只中で目指した目標に、しつこくこだわり、その夢の形にそれなりに近づけた事は幸運だったと思います。

《余語》

久しぶりに訪れた中之島で、かつて通った地下鉄駅(四つ橋線・肥後橋)から当時のキャンパスまでの懐かしい通学路を歩いてみました。

地下鉄の駅への入り口。昔は、この駅前に朝日新聞大阪本社ビルがあり、そのビル内の喫茶店は学生たちの溜り場の一つでした。そのビルも建て替えられて、さらに巨大なフェスティバルホールビルになっていました。でも当時を振り返って、都心ならではの利便さを味わえる学生生活だったように思います。

駅からキャンパス方向に向かう土佐堀川沿いの道が通学路でした。その道沿いの建物も大きな高層ビルになっています。

かつての中之島キャンパスのあったまさにその場所に、今回訪れた中之島美術館の真っ黒い建物が建っている事がよく分かりました。

その手前に、周囲に立ち並ぶ現代的な高層ビルの隙間に取り残されたようなカフェらしき店が目につきました。

まさかと思って看板を見ると、何と当時学生たちと周囲のビジネスマンの溜まり場であった懐かしい喫茶店(『ボア Bois』)が昔の名前のままで、営業していました。

昔は全体に照明が暗く、ビジネスマンの煙草の煙が立ち込め、文字通り隠れ家のような雰囲気だったと記憶しています。店内は明るく開放的な感じになっていましたが、何しろこの激しい変化が続いた都心で、50年前の店が未だ営業を続けていた事に驚きつつ、懐かしい気分でコーヒーを味わいました。

投稿者:

matsuga_senior

《松賀正考》大阪大学外国語学部英語学科、歯学部卒業。明石市で松賀歯科開業。現シニア院長。 兵庫県立大学大学院会計研究科を卒業し会計専門修士。さらに同大大学院経済学研究科修士課程を卒業。その修士論文で国際公共経済学会の優秀論文賞を受賞。現在、博士課程在学中。