コロナ禍の中で、ほとんどオンラインでの講義となった『都市再生論』という講義は大変興味深い内容であった。その締めくくりの課題としてレポートが求められ、講義内容を振り返りつつ、自分自身の痛切な経験を交えて以下のようなレポートをまとめた。
<都市再生論 レポート> (2021年1月23日発表)
郊外住宅団地の戸建て住宅から都心高層マンションへ
経済学研究科大学院 地域公共政策専攻
EM20R802松賀正考
私自身、住宅環境のあり方について、強烈な経験がある。ただ、今回、受講するにあたり、最初『都市再生論』と言う講義タイトルを見た時、その内容が自身の経験と直接の接点があるとは、全く思わなかった。まず、講義の最初に、都市の成立やその歴史、構造やその変化についての理論的研究がある事にも単純に驚いた。
戦後復興から高度成長期が始まる前の私自身の生い立ちは住環境に恵まれたものではなかった。英語学科と歯学部という2つの大学生活を経験し、社会に出てしばらくは自分の意思で住環境を選べる状況ではなかった。開業歯科医としての生活が安定し、自らの住環境を選ぶ余裕が出来たのは、1980年代後半、高度経済成長期の後半からバブル経済が始まるまでの間の比較的安定的な経済が続いた頃であった。団塊世代の後半に属し周りの同世代に遅れを取りたくない心理が植え付けられてきた気持ちの中で、経済的な余裕が生まれた時期に求める理想的な住宅としては郊外の計画的に整備された新興住宅団地にオーダーメイドの戸建て住宅を設計し、そこでの家族団欒の暮らしこそ夢と憧れの究極形であった。東京での不動産バブルが関西の郊外に波及する直前、垂水区郊外で、民間主導であったが計画的に整備された新興住宅団地の分譲地を購入して、当時子供を含む5人家族が余裕を持って暮らせるマイホームの設計に取り組んだ。それは当時の働き盛りの世代にとって、何物にも変えがたい夢の計画であり、1年以上をかけた情熱の対象であった。不動産バブルの発生と崩壊を経験する前の時代には極めて強固な不動産神話が社会全体に浸透しており不動産を保有する事は絶対確実な資産形成の道であると誰もが無邪気にその神話を信じ切っていた。銀行ですら不動産を担保にする融資には全面的な信頼を置いており、その後のバブル期には、不動産は絶対の値上がりが見込めるとして、その購入価額以上の融資すら行われる状態であった。そんな時代状況の中で、私は銀行融資をフルに活用し(絶対の安全性を持つと思われた)2区画の土地を購入し、1区画に5人家族が余裕を持って暮らせるはずの6LDKの住宅を一年がかりで設計し隣の区画をガレージと芝生の庭にしたのであった。仕事場まで車で約30分と言う通勤距離の土地であったが、クルマ人間であった私には、何の苦痛でもなかった。この郊外の住宅団地は子育て世代にとっては何の不自由も無い至れり尽くせりの住環境と思われた。幼稚園こそ通園バスのお世話になったが、小中学校は団地内に配置されており、小学校に至っては始業のチャイムが鳴ってから走っても間に合う至近距離であった。団地の中心部には、コープの店舗や銀行、コンビニや医療機関等が計画的に誘致されており子育て世代の家族に便利な小規模な商店も集まっていた。当然ながら、この新興住宅団地の住民となるのは、圧倒的に小中学生がいるか、その予備軍の子育て世代の家族であった。周囲には同質の住民があふれていた訳だが、当時、その事に何の違和感も感じず、同世代の家族との日々の付き合いも当たり前の事と感じていた。
しかし、このような超ミクロな個人の立場からズームアウトして当時の日本の住宅事情を考えてみれば、太平洋戦争で主要な都市部が全て焦土と化した戦争直後からの復興を目指してきた日本の事情を考えると、おそらく当時の日本社会で何より必要とされたのは、とにかく住宅の戸数をいかに効率的に増やすか、と言う問題であり、それが何より最優先であっただろうと思われる。しかし、将来スラム化すらしかねない無秩序な住宅供給がマズい事は誰の目にも明らかである。何とか秩序立った計画的な住宅を十分な数だけ効率的に供給する、そのような目先の強烈なニーズの中から生まれたのが都市から程近い郊外に生活基盤が整然と整備された計画的な住宅を集中的に供給する数々の新興住宅団地であったのだろう。今、あらためて振り返ってみて驚くのは、そのような住宅団地計画がほとんど<住宅(およびその住宅のための利便施設)>の供給だけに特化していた事とその住宅団地の住民のきわめて高い同質性である。千里ニュータウンに関する山本茂氏の著書にも「千里ニュータウンの居住者は、年齢・価値観などの面で一般市街地よりも均質性が強く」と書かれている。
そう言えば、高校に入って間もなく中学校時代の恩師が結婚され、入居されたばかりの阪奈地域の新興住宅団地をクラスメイトたちと共に訪問した時の光景も目に残っている。ちょうど東京オリンピックが開催された1964年頃であり、高度経済成長の熱気の中で、世界から訪れる人々の目に恥ずかしくない市民生活を!目指す空気が満ち満ちていた記憶がある。恩師の新居の新興住宅団地を初めて訪れた時の強烈な印象は、広大な敷地の中に、見渡す限り、全く同じ形態の箱型の集合住宅が立ち並ぶ光景であった。あまりにも同形態の建物が林立する中での強い印象の記憶は、訪問者ではなくとも、住民ですら自分の住居を時として間違えるのではないかとさえ思えるような人工的で無機質なものに見えた。しかし当時の雑然とした下町とは全く異次元のその住宅群での暮らしは、当時の人々の強い憧れの対象であった記憶がある。<戦後日本で最初の大規模ニュータウンであり、開発当初は「東洋一の理想都市」と謳われた>という千里ニュータウンの開発時期が1960年からの約10年であり、この大規模なモデル開発のミニチュア版が関西の各地、いや全国に広がったのだろうと想像される。しかし、当時の住宅開発モデルの特殊性、すなわち住宅機能にのみ特化していた事、ほぼ同世代の住民が一斉に入居して始まる住宅開発が何十年かのちに、大半の関係者にとって予想が及ばなかった様々な深刻な問題を引き起こす事は想像もつかなかった。
再びズームインして、超個人的な私の経験に戻ってみる。その満足し切った暮らしに、少し変化が生まれ始めたのは、長男が地元の小学校を卒業して、バスと電車と急な坂道を登る私立中学に通い始めた頃からであろうか。通学に2時間を要する状況への対応のため母親と長男の起床時間は極端に早くなった。一時はその学校近くへの転居も考えるほど負担は急増したが、他の子供の都合を考えると、そう言う訳にもいかない。夢の実現であった郊外住宅団地の地理的不便さは、さらに他の子供たちの高校進学と共に急増していった。夢のマイホームが夢のままでいられたのは家族の行動範囲がごく限られていた子供の幼少時期時代のほんの十年足らずであった。まるでその住宅事情のストレスのせいであるかのように、妻の発病と十年近い闘病生活を経て、夢の住宅の実現から二十年後、妻の早逝と子供たちの巣立ちとともに、気がつけば2区画の広い敷地の6LDKの戸建て住宅の住民は私一人になった。しかも、その後、私自身も体調を崩し超クルマ人間であった私は運転免許の更新が出来ず、一時期免許を失効し、必須の移動手段であった車が使えない状況に陥った。その時点で、この郊外新興住宅団地という形態の住宅地の不便さが一挙に襲いかかった。気がつけば団地内の至る所に溢れていた賑やかな子供の声はほどんど聞こえなくなり、向こう三軒両隣のお宅も退職年齢が近づいた大人だけのひっそりした姿になっていた。ぼちぼち空き家状態になった家も目立ち始め、着実な住民数の減少から次々に小店舗にシャッターが下り始めた。その時点で初めて、私は、このような極端に同質性が高く、同世代の住民が一斉に入居し始めるような住宅専用地域では、その住民個人だけではなく住宅地そのものも老いていくのだ、という事実を実感して愕然とした。
このライフステージの転換は強烈なものだった。広い戸建て住居は、一人住まいには余りにも無駄に広く、冷暖房効率が極端に悪く、清掃等の手間ばかりが負担になるスペースに成り果てた。殊に酷かったのが、宅地一区画分丸々の庭のスペースだった。芝生の維持管理も追いつかず、人手と費用を掛けなければ一夏で庭はジャングル状態になりかねなかった。しかも、その広い庭で遊ぶ子供の姿は、もう無かった。一人暮らしでは、広いだけの古びたキッチンで自炊する気も起きない。しかし、外食しようにも住宅地の中には数軒の飲食店しかなく、その多くが、夕方5時を過ぎると店じまいしてしまう。結局、住宅地内で賄える夕食はコープの寿司パックかお弁当屋さんの限られたメニューしか無かった。夏は蒸し風呂のような暑さ、冬は隙間風の通るだだっ広い木造住宅の中での暮らし、いやでも1日3回直面する食事の極めて限定されたメニュー・・夢のマイホーム生活はこんなはずでは無かったのに、どこでどう狂ったのか。
そのような痛切な経験をしてきただけに、講義の中で示された我が国のニュータウンという形態の住宅開発手法の歴史的経緯と現在に至って噴出している諸問題についての分析は、まさに「目から鱗」の思いであった。殊に、同じ名称でありながら、その開発の発想や取り組みの歴史についての日英での比較を通しての分析には感じ入るところが多かった。かつての高校生時代に読んだ教養書(笠信太郎『ものの見方について』)に書かれており、印象深かった「イギリス人は歩きながら考える」という民族性の分析の一節が再び記憶に蘇った。やはり明治からの息せき切った急造の国造りと戦後からの慌ただしい復興の中で、その公共政策の発想はどうしても場当たり的でその場しのぎの短期的視野での取り組みに陥りやすかったのだろうか、というのが改めての実感であった。日本でのニュータウン建設の最先発モデルであった千里ニュータウン開発では1960年からのわずか10年の期間で計画人口15万人の住宅都市を作り上げたという実績はある意味で驚異的とも言えるものと思えるが、1975年に13万人弱のピークに達したのちに減少を続け、2005年には約8.9万人に減少するとともに、その高齢化率(65歳以上の人口比率)が1970年には2.8%と大阪府平均の5.2%を大きく下回っていたものが、その後増加を続けたのち、2005年には26.1%と大阪府平均の18,5%を逆に上回り、さらにその差が拡大する傾向にある、という事実は驚きであった。(山本茂『ニュータウン再生』)講義で示されたイギリスのニュータウン開発は、これとはまさに対照的に1900年の初期(日本の明治後期)から始まり半世紀以上をかけて、緩やかでも着実な人口増加を伴う都市造りが進んできたという実例からは、彼我のあまりの違いに唖然とする思いである。将来の人口予測でも着実な増加が見込まれ、それだけの時間をかけた緩やかな開発計画では人口構造もイギリス全土と変わらず、当然、私個人が強烈な思いで経験したような急激な人口増加とその後の一気に進む人口の減少、同時進行の地区全体の高齢化、さらには、地区内での利便施設の衰退のような問題とは無縁のようである。
そのような都市開発における極端な対比を見る時、歴史的、現実的条件からやむを得なかった面は大いにあるにしても、我が国におけるニュータウン開発計画には、明らかな政策的ミス、長期的な視点の欠如、大局的な取り組みの姿勢の不在等、数々の問題点があった事は否めないだろうと考えざるを得ない。千里ニュータウンの開発初期からこの事業に関わってきた山本氏によると千里ニュータウンの功罪は以下のようなものである。
<開発の意義>
1. 10万人規模の都市を計画的に実現した事による我が国の都市開発モデルとなった
2. 既成市街地では困難な道路、公園、上・下水道などの都市基盤の著しく整った街作りにより都市開発方式のモデルとなった。
3. 近隣住区理論などに基づく新しい試み
4. 集合住宅地における新しい土地の利用や居住空間、ライフスタイルの開発と定着
5. 地域・広域の交通基盤の整備
6. 周辺地域の都市化と高次都市機能の集積を誘発
<成熟化に伴う課題>
1. 人口の減少と少子・高齢化
2. 多世代居住と住み替えへの対応
3. 高齢社会に対応した日常生活圏の整備
4. 住宅ストックの活用と住環境の保全
我が国の戦後復興に伴う爆発的な住宅需要に応える事業として、確かに千里ニュータウンが先導モデルとなった新興ニュータウン型の住宅開発の果たした意義はきわめて大きかったのは事実であろう。しかし、その後の成熟期の中で、改めて大きな数々の問題点が浮かび上がったことも間違いない。それらの諸問題について、具体的な解決策が模索されているようであるが、講義の中で紹介されたユーカリが丘ニュータウンで取り組まれてきた新たな工夫は、従来のニュータウン開発手法の反省の上に立ち、高齢化せず、空き家も発生しない街造りを小規模定量開発という形で進められていること、また、これが公的主体によるものでなく、一民間企業によって進められている事は、大変注目に値すると思われる。欧米で進められているというコンパクトシティやサスティナブル都市などの新しい都市開発手法も参考にしつつ、今や深刻な問題となりつつあるオールド=ニュータウン問題の解決が急がれる。住宅問題で思いがけず痛烈な経験をした一市民として、このような問題についても関心を持ち続けたいと思う。
なお、最後に、住宅問題で深刻な行き詰まりに陥った一個人としての経過を述べておきたい。
かつての夢のマイホームが気がつけば一転、日常生活の維持すら困難な事態に陥り、私の住生活はほとんど窒息寸前であった。しかし、ちょうど3年前の春、神戸の都心部に勤める長女が勤務先に近接した住居を探し始めた事をきっかけに三宮周辺のマンションを探す手伝いをすることになった。その過程で、三宮駅から徒歩10分というロケーションに位置するシニア世代向けの高層マンションに出会い、そのロケーションの利便性と館内に温浴施設やレストランまで備えている充実した条件に即決して移住を決めた。これもまた、近年、マスコミ等でよく話題に上がる「シニア世代の都心回帰」そのものであった。
しかし、この住み替えにより、私の住生活は窒息寸前から息を吹き返し、改めて都心の高い利便性とほとんどメインテナンスフリーの日々に一息をついた。そして、実は歯学部進学以前からの密かな希望であった研究生活を大学院で実現し、その合間にテニスや小旅行を楽しむ生活を取り戻した。人間の生活において、住生活の充実の大切さを改めて痛感するとともに、社会の中の一分子に過ぎないが、やはり、このような住宅問題、都市問題への関心を持ち続けることが必要であると感じる日々である。
<参考図書>
山本茂『ニュータウン再生』(学芸出版社、2009 )
団地再生産業協議会『団地再生まちづくり2』(水曜社、2009)
大野秀敏『シュリンキング・日本』(鹿島出版会、2008)
石塚義高『サスティナブル都市』(近代文芸社、2007)
山崎満広『ポートランドー世界で一番住みたい街をつくる』(学芸出版社、2016)
村上敦『ドイツのコンパクトシティはなぜ成功するのか』(学芸出版社、2017)
笠信太郎『ものの見方について』(朝日新聞社、1950)