遥か昔の高校生時代、スイスの文筆家ヒルティの『幸福論』と言う本を岩波文庫で読み、その中で紹介されていたローマの哲学者エピクテトスの言葉に強い感銘を受けた事を覚えています。単に感銘を受けただけではなく、その言葉は、その後の私の人生の中に鳴り響く重低音のように折に触れ繰り返し流れ、その時々の状況を考え、自分の生き方を判断する羅針盤のような役割を果たして来たような気がします。ローマ時代には、様々な流派の哲学者が生まれ、エピクテトスは、その中でもストア派の一人とされます。ストア派は、日本では『禁欲派』とも言われ、英語でもストイックの語源にもなっています。ストイックとは、まさに色んな欲望を我慢して生きる禁欲主義的な生き方を指します。
しかし、私がエピクテトスの言葉に触れた時感じた彼の考え方は、「自分の欲望をひたすら抑え込んで生きる」と言う我慢の哲学ではなく、自らの力でコントロール出来ない事に囚われ、それに左右されるのは愚かしい事であり、人間は、自分のコントロール出来る事に集中して生きる事こそ、賢明な生き方である、と言う透徹した冷静な論理でした。そしてそれは、ある意味、実務的な究極の効率的な生き方の指針とさえ言えると私は納得し、その姿勢を大切にしようと思ったのです。
《エピクテトスの『提要』から》
「世には我々の力の及ぶものと、及ばないものとがある。我々の力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、一言で言えば、我々の意志の所産の一切である。我々の力の及ばないものは、我々の肉体、財産、名誉、官職など、我々のせいでない一切のものである。我々の力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されることもない。が、我々の力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。
それゆえ、君が本来隷属的なものを自由なものと思い、他人のものを自分のものと見るならば、君は障害に会い、悲哀と不安とに陥り、ついには神を恨み、人をかこつことになるであろうことを忘れるな。これに反して、君が真に自分の所有するものを自分のものと思い、他人のものを他人のものと認めるならば、誰も君を強制したり、妨害したりはしないであろう。君は誰をも恨まず、非難せず、またどんな些細なことも自分の意志に反してなす必要はないであろう。誰も君を害せず、君は一人の敵ももたないだろう。そして、君の不利となることは一切起きないだろう。」
「忘れてならないことは、君は人生において、饗宴の席におけるように振舞わねばならぬことである。馳走の皿が君の前に回って来たなら、手を差し伸べて、その中から控え目に少しの分量を取れ。君の好むものがしばらく回って来なかったからといって強いてそれを求めてはならぬ。むしろ、それが君の所へ回って来るまで待っていよ。」
そして、現在、私が日々心したいと考えるのは、この言葉です。
「航海中、船が時々港に入り、君は水汲みに上陸したならば、途中で貝殻や球根を拾うのは差し支えないが、しかしその時でも、君の考えを船へ向け、舵取りが呼びはしないかと、絶えず振り返って見なければならぬ。そして、もしも彼が呼ぶならば、ただちに一切を投げ捨てねばならぬ。君が既に老人であるならば、総じてもはや船から遠く離れてはならぬ、舵取りが呼ぶ時、乗り遅れる心配のないように。」
つまり《人生は有限であり、必ず終末がある事を忘れるな、その事を忘れていつまでも目の前の雑事に囚われていてはならない》と言う、人間が陥りやすい人生への錯覚に対する鋭い指摘です。