県歯会報に『年男感想』

丑年の来年、私は6回目の年男になります。兵庫県歯の会報に年男としての感想を書く事になりました。字数制限の関係で舌足らず(筆足らず?)気味ですが、転載しておきます。

 前回の年男だった還暦からの12年は激動続きの人生の中でも激しいものでした。ちょうど10年前、体調不良もあり診療所を息子に丸投げし30年間の開業医生活を終えました。6回目の年男を迎えて振り返ると人生を俯瞰的に眺められような気分になります。

元々私は全く異分野の阪大英語学科を卒業後、歯学部受験に挑戦し再入学いたしました。自らの性格が厳しいビジネス社会には向かず、元来、机上の研究者向きであろうと思っていました。しかし家産の無い母子家庭の一人っ子には経済的に無理との判断から、ひとまず社会人としての最低限の義務を果たし、その後、自分の我がままも許されるかと考えての迂遠な人生設計からの転身でした。

 クラスメイトとは歳の差のある歯学部生活時代から何となく感じて来た「異邦人」感覚は、その後の開業医生活でも付きまといました。その感覚のせいもあってか、歯科医業を離れてからのヒマも持て余し、そう言えば、元々人生計画の終着点だった事も思い出し、2年前の春、思い切って兵庫県立大学の文系大学院に入学しました。今春、会計専門修士課程を修了し、現在コロナ禍のキャンパスで経済学部地域公共政策専攻の博士課程にて巨大IT企業の国際課税問題の研究に取り組んでいます。外から見れば奇妙に映るに違いない転身人生ですが、私としてはようやく「異邦人」意識が消えている感覚に気づく日々です。

 しかしながら、現在、私がのんびりと自分の肌に合う世界で好きな事をして過ごせるのも現役の開業歯科医としての生活のお陰です。そして、県歯で偶々担当させて頂いた情報調査室理事時代、本業以外の余暇のエネルギーを、当時夢中だったITの世界に振り向け、FirstClass の導入や県歯業務のIT化等に取り組ませて頂いた時、暖かく受け入れ、協力頂いた周囲の先生方には感謝の言葉もありません。あの頃お世話になった皆様方、本当にありがとうございました。

 なお、近況を『シニア院長のブログ』にて、ご笑覧頂ければ幸いです。(《シニア院長》で検索頂ければ、トップに表示されます。)

なお、私がこの一文で筆足らずだったのは、二十代前半、英語学科を出た頃の私の心境と人生設計への思いです。

私のその頃の自己分析と人生設計の希望は、文系分野に関わる研究生活が、自分には向いており、そのような進路を選ぶ事でした。しかし、そのような分野でしっかりした仕事をするためには、ある期間の下積みや基礎的訓練や蓄積の時代が必要です。さらに、そのような分野での仕事をするために決定的に必要なのは、その分野で、社会的に貢献出来るだけの創造的仕事を出来る才能と能力です。何の資産もない母子家庭の一人っ子として育ち、大学卒業の直前に、唯一の家族である母親が病死した状況の私には、修練と蓄積のための期間を持つような経済的条件はありませんでした。

さらに私が何より重視したのは、その分野で、私が確かに貢献出来るだけの才能があるか、と言う懸念でした。「好き」と「出来る」は違います。才能の無い人間が、文化的分野に職を求め、そこで食を得る事は、厳しく言えば、社会への貢献を出来ないのに社会から食べさせてもらう事を意味します。それは当時の私には「社会への寄生」であると映りました。そう言う独り善がりの「ナンちゃって文化人」になる事はすまい、と自戒していました。

だから、何らかの実務者として確実に社会に貢献し、その対価として社会の中で食を得て、その後に自分の好きな事をすれば良い、と考えたのです。それであれば、自分に特別の才能が無く、創造的業績で社会に貢献出来なくても、自分としてはやましくない、と思えたのです。

私の歯学部転身は、そう言う意味での確実な実務的な社会貢献が出来る道であると考えました。そんな迂遠な人生設計からすれば、現在の大学院での研究生活は、私なりの終着点と言う事になります。私は、自分にそれほどの才能が無くても、その研究生活が単なる自己満足に終わっても、やましさ無くその時間を楽しめるとの安堵感があります。現在の私の風変わりな大学院生活は、そう言う意味で50年前、二十歳の頃に設計した私の人生のジグゾーパズルの最後のワンピースと言えるのかもしれません。

投稿者:

matsuga_senior

《松賀正考》大阪大学外国語学部英語学科、歯学部卒業。明石市で松賀歯科開業。現シニア院長。 兵庫県立大学大学院会計研究科を卒業し会計専門修士。さらに同大大学院経済学研究科修士課程を卒業。その修士論文で国際公共経済学会の優秀論文賞を受賞。現在、博士課程在学中。