大学院2年目後期の期末テストも本日で全て修了しました。2年前の春、突然思い立ってご縁を頂いた兵庫県立大学での会計学研究科の大学院生活もほぼ終わりを迎え、よほどのヘボをしていない限り3月の学年末には、会計学専門修士の資格を頂ける予定となり、学位授与式、卒業祝賀会の日程も決まっています。
30年以上の開業医生活から、全くの異分野の研究生活の悪戦苦闘も終わりを迎え、それなりの達成感と深い感慨を覚えています。
次の取り組みとして、会計学からさらに、経済学全体を研究したいと考え、引き続き、同じ大学院の経済学研究科への再入学を志し、その入学試験を受ける事にしました。
英語の筆記試験に続き、口頭試問も終えて、大学のキャンパスの廊下を歩いていると、教員らしい落ち着いた風貌の方が近づいて来られ、「松賀先生でしょうか?」と声を掛けられました。明石の地での開業医生活も30年以上に及び、診療所で診させていただいた患者さんのカルテも数千枚になりますので、少なくとも数千の患者さんとはお知り合いになっており、てっきりそのお一人かと思いながらお顔を覗き込むと、「 K町で、先生にお世話になったものです」と、思いがけず、遥か遠い昔の学生時代を過ごした懐かしい地名が出て来ました。数えてみれば、私の20代、半世紀近い昔、私は東大阪市の近鉄沿線の町で多数の家庭教師のアルバイトに励んで生計を立て、歯学部の学生生活を送っていました。そうこうするうち、K町という地で、現在で言えば2DKの間取りの住宅を借り、そこに生徒さんに来てもらい、主として数名単位のグループの中学生を相手に一種の個別学習塾を始めたのです。通常の家庭教師では学生さんの個人のお宅に出向く形になり、移動時間を考えると自分で教室的スペースのある間取りの家を借りて生徒さんに来てもらう方が効率的でもあり、またその分、授業料を抑えてより多くの生徒さんを教えることが出来ると考えたのです。当時の日本は高度経済成長の真っ只中、子供の数も多く、各家庭の教育熱も燃え上がっている状況だったと思います。その形の個別指導塾は、どうやら時代のニーズに合ったらしく、たくさんの生徒さんに来ていただき、お陰で私は学生ながら当時の大卒初任給以上の収入を得ることが出来、学費のかかる医歯系ながらも、国立大学の学費の安さにも助けられ、教科書や実習費も賄え無事歯学部生活を全うしたのでした。その代わり当時の私の生活は多忙を極めており、生徒たちの中間や期末テストの時期の日曜日ともなると朝早くから夜遅くまで、ほぼ休憩時間も無く次々と入れ替わりで来るグループのお世話に追われ、夜、一日びっしり詰まった予定を終えた後ふと気がつくと一日まともに食事を取っていなかった事に気づくと言うこともよくありました。(当時の状況は、『音楽から蘇る記憶』の稿にも書き記しました)
その方から懐かしい地名を聞いて、たちまちその当時の記憶が蘇りましたが、急いで交換させてもらった名刺を見ると、何と私が2年間学んで来た大学の別の学部の教授という肩書がありました。私の比較的珍しい姓と、今回の大学院入学志願書類の履歴を教授という立場から目にされ、気づかれたそうです。
えっ、それでは、あの当時、不十分ながらも勉強のお手伝いをさせてもらった生徒さんが、今、この大学の教授として活躍しておられるのか、と驚きながら、お話を聞くと、まさにその通りで、中学生時代、私の小さな学習塾で勉強していただいた後、地元の進学校に入り、長い研究生活の後、現在は県立大学で教授として活躍しておられるとの事でした。まさに学生と指導者との立場が逆転した状況になっていた訳ですが、その逆転は私にとって大変嬉しいものでした。私が不十分ながらも勉強のお手伝いをさせてもらった元生徒さんが、時を経て大学の教授として教えておられると言う話は、私にとっては名誉な事であり少々恥ずかしくはありますが、やはりどこか誇らしい気持ちにもなりました。
双方ともに予定があり、立ち話になりましたが、お聞きした話では、ちょうど私の歯学部生活の卒業前の3年間に中学生としての勉強をお手伝いしたようでした。そう言えば、その最終学年の夏休み、私はそれまでに蓄えた貯金の全てを投じて、約1か月のヨーロッパツアーに出かけており、その当時受験生だった生徒さんたちにご迷惑をかけたのではないかとお聞きすると、私の初の海外旅行のエピソードも覚えておられ、そのお土産代わりに現地通貨のコインを貰ったとのお話を聞かせてもらいました。
それにしても、半世紀近い時を隔てて、私自身、様々な紆余曲折を経て、たまたま私が大学院生として在学している大学で、教授を務めているかつての教え子さんとぱったり出逢うという縁の不思議さに感じ入りました。「世界は広いようで狭い」という言葉を改めて実感した一日でした。