振り返ってみるに、今年の1月半ばに、年末年始のニュージーランド🇳🇿へのホームステイ旅行記5部作を書いて以来、3ヶ月以上、このブログに向かうことは一度もありませんでした。もちろん、このブログ開始以後、初めての空白期間になってしまいました。この空白は、我ながら、振り返って強烈な理由があり、単にエネルギーが落ちたとか、健康上の問題とかでは、全くありません。我が全エネルギーを吸引してしまうような、強烈な関心事があり、生活のあらゆる側面が、そちらに集中してしまったのでした。その事について、文章で公にする事があるかどうかは、定かではありません。
(平成から令和に改元される直前の連休始めに、インフルエンザにかかってしまい、外出不可の状態の中、この稿に取りかかりました)
それはともかく、この3ヶ月余りの期間に、我が大学院生活にも、大きな出来事は、いくつかありました。2月初旬には、後期の期末考査があり、もちろん、その対策に全力を挙げました。ただ、その結果が分かるのは、実に2ヶ月後の4月初旬で、それまでの間、長い春休み休暇に入りました。
丸々2ヶ月に及ぶ春休みですから、やはり海外経験をしたいとは思いましたが、冬休みほど熱心にはなれませんでした。一つには、年末年始の冬休みをフルに使ったニュージーランド🇳🇿ツアーが余りにチャレンジングなもので、様々なハプニングにも遭遇し、最後には顔面強打の転倒事故を起こすなど、この上なく派手で強烈な印象だったことがあります。それが一種のトラウマになったのか、夏休み・冬休みの時ほど前のめりにはなれず、別の関心事に夢中だったこともあり、ごく普通の観光パックツアーに行っただけでした。行き先は、ニュージーランド🇳🇿の長時間フライトに懲りて、近場で、やはり食事の美味いところ、ということで、台湾にしました。スケジュールは、わずか2泊3日でした。年末年始の10日を超すホームステイツアーのトラウマはきつかったようです。
さて、その超短期ツアーについては、別稿にするとして、この間の私の大きな関心事は、春休み最後の成績発表でした。
前期の成績がA+が1、Aが2、Bが2、Cが2、というまあほどほどのレベルだったので、後期は不遜にも『A評価以外は要らないぜ!』を方針に掲げ、奮闘しました。やはり前期半年で、大学院の講義形式にも慣れ、学習の要領も大分分かってきたようで、学習には集中出来、試験の手応えもありました。とは言え4月初旬、我が大学院1年目の総合成績が渡されるオリエンテーションにはドキドキの気分で参加しました。
結果を言えば、1年後期は、(前後期通じて4単位となるゼミ科目も含め)3科目8単位がA+、3科目6単位がA、2科目4単位がBで、Cは無しでした。オールAを目指す野望はなりませんでしたが、18単位中14単位がA以上で、C評価が無かったので、自分としてはよく奮闘したと思います。ちなみに、アメリカ留学の際の基準とされるGPAの平均を計算すると、3.22(最高が4.0で、その80.5%)となり、米大学院の入学基準とされる3.0は上回っていることになります。(ただし、Cも混じっていた前期の成績も合わせて一学年の平均で見れば、2.81となります。これは、米国の大学への入学が可能とされる2.0は上回っていますが大学院入学の基準は満たせないようです。もちろん、今のところ私には、米国留学の野望はありませんが💦)
ただ、2年目の成績目標としては、全学年を通してのGPAで3.0以上を目指す、ということにしようかと思います。
この大学院でのGPAを計算してみた際に、過去の大学での成績のGPA評価も気になりました。阪大歯学部時代は、何しろ書籍代や実習材料費などの学資稼ぎのため10軒前後の家庭教師先を抱えて走り回っており大学の成績はとにかく必要単位を落としさえしなければいいという方針だったので評価計算する意欲すら湧きません。その前の英語学科時代は、病いに倒れた母親との生活を支えるためにありとあらゆる職種のアルバイトまみれの学生生活ではあったのですが、欧米文化への興味も深く、比較的頑張っていたようで、結果は3.32(83%) と現大学院の3.252(80.5%)よりもいいものでした。(3.0以上ですから成績的には英語学科卒業後、米国大学院留学も可能だったのでしょうか。しかし、この年の春、唯一の家族だった母親が闘病の末病死し、私は、家族も資産も全てゼロでのスタートでしたから、留学など夢のまた夢でした。)
<英語学科時代の唯一の写真・・懐かしい!>
そう言えば、当時学んだ学科の中で、英語そのものを超え、言語全体を対象にした『言語学』についての講義から、文系分野としては珍しく体系的で緻密な言語科学について強い興味を感じたことを思い出しました。また気が向けば、こんな分野の探究もしてみたいものです。
いずれにしても、自分が深い興味を持てる分野の研究に集中した時間を持ちたい、という若き日の夢を私は今、実現出来ているのかもしれません。