異国への旅は『修行』の舞台か?

年末年始のチャレンジングなニュージーランド🇳🇿ツアーを終え、1月4日、2週間ぶりに関西空港に降り立ちました。全てに勝手が分かり、言葉が何の苦もなく通じる母国に帰り着いた安心感とホッと安らぐ気持ちは何とも言えません。三宮へのシャトルバスから見る六甲の山並みを見ると、心から安堵しました。

様々な挑戦だけでなく、大小のアクシデントもあっただけに、心身ともに疲労困憊です。「何の因果で、こんな思いをして、くたびれ果てるような試みをしたのか」と嘆く気持ちの中で、これは一種の『修行』だな、という思いが湧いて来ました。そう言えば、疲労困憊の気持ちの向こうに、何か一種の清々しさが垣間見えるような気もします。あえて困難な状況に直面して、それをどうにかこうにか乗り切った、という一種の達成感でしょうか。「私はマゾヒストなのか?」と自問してみましたが、考えてみれば、形は違えど同じような事をする人はたくさんいるような気がします。例えば、マラソンを趣味としてこれに挑戦し続ける人は当たり前に一杯います。そのゴールの先に何があるわけでもない40kmを超す距離をひたすら走り、汗をかき、走り抜いたところで(プロランナーは別にして)何を得られるわけでもない。功利主義的立場から言えば、全くの骨折り損のくたびれ儲けでしかない。しかし、多くの人が嬉々として、これを趣味にして、何の見返りもなく走り続けています。健康に良い、足腰が鍛えられる、というようなメリットが無いわけではありませんが、それは、言わば後付けの副次的なものです。

このような人間の無償の活動の究極の形が、いわゆる『修行』でしょう。『修行』の基本は、非日常性にあります。日頃慣れ親しんだ安穏な環境から自らの意志で断絶し、自らに難行苦行を課す事によって何かを感じ、何かを求めようとします。粗食に甘んじ、滝に打たれたり、山を駆け巡ったり、と色んな行動をしますが、特徴的なのは、その行動そのものには意味は無く、そうすることで日常生活から離脱することに意味があると思われることです。

もちろん、私はニュージーランド🇳🇿に『修行』をしに行ったわけではなく、南半球の夏の日差しを浴び、ナマの英語に触れる経験をし、何より「異国の地でのゴルフコース⛳️デビュー」という冒険的なチャレンジも、とにかくやり通しました。しかし、振り返ってみて大きいのは、毎日を過ごしてきた日常生活を離れ、全く違う環境と状況の中での時間を過ごして、改めて普段の日々の生活を別の視点と感覚から見直すことが出来た、という経験です。それは、『修行』の場において自分の普段の日常生活を省みるのと同じような意味を持つでしょう。

今回の私のツアーは、ホテルが用意され、それを拠点にガイド付きツアーやオプショナルツアーをするのではなく、現地の家庭に宿泊し、その家庭のルールに従って共に暮らしつつ現地の英語学校に通うというホームステイ型の語学研修ツアーという形をあえて取りました。
その分、日常生活ごと日本での暮らしを離れ、新しい環境と生活を経験することになります。振り返ってみて、やはりそれ自体、一つの大きなチャレンジであり、普段の安穏で気楽な生活を離れ、不慣れな暮らしをすることで、普段の日本の日々の生活をこれまでにない新しい視点で見直すことになったと思います。

   

では、今回のニュージーランド🇳🇿道場での厳しく苦しい『修行』の結果、私に開けた悟りとは、どんなものだったでしょう。それは一言で言って、「我々が日本🇯🇵で送っている日々の暮らしの質の高さの再認識」という事に尽きるでしょう。『修行』前には、よく分かっていませんでしたが、日本の生活のあらゆる面で、我々は極めて繊細でクォリティーの高いレベルの暮らしをしている事を改めて深く感じる事が出来ました。

何よりそれが歴然としているのは、まず食生活ですね。ニュージーランド🇳🇿は、元々イギリス🇬🇧の植民地としてスタートし、今も英女王を元首とする立憲君主国です。そのせいかどうか、イギリス流に(?)食生活には比較的無頓着のように思われました。ホストファミリーの家の初日にも、現地の和食料理店でも、一応白米のご飯が提供されましたが、これが不味い!コメは、いわゆる長粒米で、日本のお米のような繊細な旨味など期待出来ません。家庭で出たご飯たるや、硬めのお粥を湯切りしたような調理で、日本🇯🇵のネコも横を向きそうです。食材を取っても、毎朝自分で作ったベーコンエッグ用に用意された卵は、黄身が小さく、割る度に流れてしまう貧弱さに、鮮度は大丈夫かいなと疑うレベルで旨味も感じられません。そもそも、その食材を売るスーパーマーケットそのものが、(私の狭い見聞で見る限りでは)大手1社しか目にせず、その店頭を見る限り、十分に豊富な品揃えがありましたが、何しろ都心部でも、ホームステイ先の郊外でも、その一社しか見かけませんでした。そんな状況で、十分な競争原理が働いているのか他国の事ながら気になりました。さらに驚いたのは、今や日本🇯🇵の消費生活の基本的インフラとなっているコンビニをほとんど見かけなかった事です。24時間営業のコンビニが、大手だけでも複数社競い合い、激しい競争をしている日本の消費生活から比べると、その不便さは、想像を絶します。殊に、三宮駅までの徒歩10分の間に、大手各社のコンビニ店舗が10以上ひしめいて競争し合っている私の日常の生活からすると、その利便性において別世界としか思えません。

    

さらに基礎的インフラと言えば、トイレの状況ですが、これまた日本の繊細でキレイなトイレの充実ぶりがいかにハイレベルであるか、改めて再認識しました。ウォシュレットなどの多機能トイレは見かけたこともありませんし、トイレットペーパーのホルダーも、ただ引きちぎるとしか形容出来ない原始的なもので、日本のトイレの清潔で繊細な造りとは程遠いものです。

また、公共交通機関のサービスの状況は、前稿で路線バスについて触れた通りです。バス停で待っているのに行き過ぎてしまう、降車ボタンを押しているのに気づかれない、2本連続で欠便する、さらにそれについて何の説明も無い、等々、日本では到底考えられないことが平然と起こります。まあ、この交通機関の正確性という問題では、僅か数分の遅れを取り戻すために多数の死傷者を出したJRの脱線事故などを考えると、複雑な気持ちにはなりますが・・。

  

僅か2週間足らずの滞在で断定的な事は言えませんが、異国の地の道場での『修行』から、日本🇯🇵の消費生活の基本的なレベルの高さを改めて実感したのは事実です。

近代、明治維新で初めて国を開き、欧米先進国からの遅れにキャッチアップしようと<坂の上の雲>を目指して国全体を挙げて努力を続けて来た日本の長い歴史があります。焦りから、大戦争に突入する愚を犯したものの、その廃墟の跡から営々たる努力で豊かな生活を築こうとしてきた日本人の営みは確かな実りを結んでいると感じました。『ジャパン アズ No.1』というベストセラーに、はしゃいだバブル期のおごり高ぶった時代を経て、バブル崩壊後の『失われた10年』等々の自虐的な呼称の時代の中で、でも日本はしっかり足元を固め、着実に豊かなインフラを築いてきたのではないか、と感じました。

ニュージーランド🇳🇿道場での『修行』から感じた感想の一端でした。

投稿者:

matsuga_senior

《松賀正考》大阪大学外国語学部英語学科、歯学部卒業。明石市で松賀歯科開業。現シニア院長。 兵庫県立大学大学院会計研究科を卒業し会計専門修士。さらに同大大学院経済学研究科修士課程を卒業。その修士論文で国際公共経済学会の優秀論文賞を受賞。現在、博士課程在学中。