断捨離は人生の先始末?

<断捨離>という言葉はよく耳にしますが、漠然と『要らないものを処分して、サッパリしよう』ということだろうなとは思うものの、その意味や由来は知りませんでした。ちなみに、ネット検索してみますと、Wikipedia には以下のような解説があります。
なるほど、2010年の流行語にも入っていたのであれば、もう10年近い歴史の中で、我々の意識の中に定着した考えなんだろうな、と思えます。(ヨガに由来しているとは知りませんでしたが)

断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、
・断:入ってくるいらない物を断つ。
・捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
・離:物への執着から離れる。
として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。
「日本では伝統的に「もったいない」という観念・考え方があるが(これはこれでひとつの考え方・価値観ではあるが)、この考え方が行き過ぎると物を捨てることができなくなり、やがてすでに使わなくなったモノ・将来も使うはずがないモノなどが家・部屋の中に次第に増えてゆき、やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、また人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて心身の健康を害するほどになってしまう。」
断捨離は、「断・捨・離」として2010年の流行語にも選ばれた。

では、『断捨離』は可能か?と聞かれれば、私は可能である、とそれなりの自信を持って答えられると思います。なぜなら、私は1年前、敷地面積115坪、総床面積65坪(214㎡)の6LDKの住まいから13坪(44㎡)の1LDKへ、<比率にして、5分の1>への住み替えで、究極の断捨離を行ったと思うからです。

(ただ、その後、今年2019年の夏、同じフロア内で、約19坪の2LDKに住み替えることになり、少々断捨離から逆行することになりましたが・・・)

では、断捨離に意味はあるか、するべきか、と問われれば、答えは大いにYESです。その理由はと聞かれれば、Man is mortal “<人は死を逃れられない存在である>から、と答えます。日常、意識はしないかもしれませんが、全ての人に死という終焉がある以上、その人間が身の回りに集積した数々のモノたちを自分が処理していなければ、それは間違いなく後を託する人々への大きな負担を残すことになります。自分自身ですら、その必要性を明確に認識できないモノたちを自分の死後、後世に残したところで、それは意味のないガラクタを残すに等しいでしょう。戦中派の方々の厳しい経験には到底及ばないものの、我々の、いわゆる団塊の世代も戦後の物不足時代の悲しい経験を持っています。高度経済成長時代は、そのような充満する<モノへの飢餓感>を満たすことが、人生の目標とも化し、モノへの執着心は、我々の世代に、今なお強く残っています。しかし、自らの死をも視野に入れ、冷静な目で自分の身の回りを見直してみる時、住まいに蓄積されたモノの数々は本当に将来にわたって必要で、後の世代にとっても価値のあるものでしょうか。答えは、まず間違いなくNOでしょう。

秦の始皇帝をはじめ、歴史的大権力者は、現世の暮らしをそのままあの世でも続けるべく、その墳墓に多くの埋葬品を入れ込み、始皇帝は、生きた従者や後宮の女性までも生き埋めにするという空恐ろしい行為をした可能性が伝えられていますが、その現世への執着は哀れにも映ります。来世で暮らす大権力者が居るとすれば、その方々に、その後の様子をインタビューしてみたいものですが、おそらく大量の副葬品は、盗掘の対象にこそなれ、権力者の思いは遂げられなかったものと思います。

    

大権力者の力をもってしても、来世にモノを持っていけないとすれば、凡々たる庶民の我ら、自分の死後、現世に残されるモノはできるだけ自ら処分して、後世の負担にならないように考えるのが、先立つ者のマナーではないでしょうか(笑)。

1年前、私が総床面積65坪の一戸建てから13坪のマンションへの移住を検討し始めた頃、周囲の人々は『それは無理でしょう、納まりませんよ』と口を揃えました。この住み替えにまつわる様々な不動産売買のお世話になった不動産のプロの方々ですら、そうでした。 
『なるほどそうかもしれない。でも、他に選択肢は無い』というのがその時の私の思いでした。で、私がやったのは、これからの生活にどうしても必要で、確実に使うモノだけをピックアップして新居に入れる、ただし、その選抜に妥協は許されず、迷うモノは絶対に入れない、という方針で厳しい選抜を行いました。夢のマイホームの完成時に購入した大きな家具調仏壇もリストからは外れました。新居の主が我慢するんだから、お許しを、との思いで、小さなマンション用仏壇に入れ替えることにしました。もう二度と出番は無さそうな鯉のぼりや雛人形もリストから外れました。書籍類も大半はリストから外れました。時代遅れになったもの、もはや関心の対象では無くなったもの、今後読み返すことはまず無いだろうもの、が大半でした。台所用品、リビングを占拠していた品々もほとんどがリスト外でした。本当に気に入った、趣味の合うもののみ、選び抜きました。衣類の大半が不要でした。

で、これらのより抜いたモノのみをマンションに運び入れ、ひとまずマンションでの新生活を始めました。これがまた、共用施設の充実も合わさって実に快適でした。50㎡を切る小さいスペースですが、こざっぱりした空間の中に、自分が本当に必要なモノのみが、すぐ手に届く範囲にある、ということは毎日のストレスを激減させると感じました。考えてみれば、5人が暮らしていた6LDKのスペースを埋め尽くしていた大量のモノの大半は、自分の日々の生活にはほとんど役に立たないものであったことに気がついて、愕然としました。5人から1人へ、という極端な状況の変化がそれに気づかせてくれたのでしょう。多くのシニアの方々にとって、ここまで極端な状況の変化は無く、それでも子育て時代の名残りの多くのモノに囲まれてシニア夫婦で暮らしておられるケースが多いでしょう。そんな場合、自分たちを取り巻くモノの集積の意味と重さを実感されることは少ないだろうと思います。しかし、どんな王侯貴族でも、永遠の生を得た人はいないのですから、いずれどなたにも死は訪れ、一人が旅立ち、一人が残されます。その時、残された一人に思い切った決断と煩雑な作業をするだけのエネルギーが残っているか、という問題があります。そのエネルギーが残されていなければ、その後始末は次世代にしわ寄せすることになります、余計なお世話ですが・・。

私は、今思えば分不相応な敷地面積115坪、総床面積65坪6LDKの住まいとそこに集積されていた大量のモノを今の時点で処分できたことは、自分の人生の後始末の一つとしては、上出来だったのではないか、と感じています。
(ん?未だ我が人生は終わってないから、始末じゃなくて、始末と言うべきか??・・と思って、タイトルは『始末』としました。)

 

あの大量のモノを後に残した場合、その後始末は、後世にその処分のために、大変なエネルギーの負担を押し付けることになったでしょう。それがたとえ子供たちであっても、できるだけ人には迷惑をかけたくありません。その意味で、『後顧の憂い』の一つを無くした、という安堵感が一つのストレスの軽減になったような気がします。一言で言えば、セイセイした、ということですね(笑)。
(それにしても、65坪から13坪へ、というのはまさに5分の1です。5人家族から1人暮らしになった状況から言っても、その通り。キチンと割り切れることが好きという私の性癖にピッタリだとは言え、あまりにジャスト過ぎて、笑ってしまいます。)
Time is NOT money と言うこともシミジミ分かってきたし、残された貴重な Time を大切にして、もはやMoney は追っかけない。後世に負担を残すだけだから、モノには執着しない・・・身軽なシニア=ライフを生きたいものです。

(おまけ・・人生の先始末)

断捨離は人生の後始末(先始末?)の一つかもしれませんが、そういう消極的・後ろ向きの始末だけでは、いかにも寂しいです。私の意識の中では、このブログもまた人生の後始末の一つのような気がし始めていますが、それは、むしろ積極的・前向きな後始末、いや、その意味でもまさに先始末、と言えるかもしれません。
自分が生きた足跡を何らかの形で残したいと思うのは、人生の始末として決して否定されるべきものではないと思います。事実、大きな社会的功績を残され、それを自伝という形で残されるケースもよくあります。それが社会的価値を持つ場合は、社会的資料に、文学的価値を持つ場合は自伝文学にまでランクアップします。しかし、巷の一市民の生きた足跡は、おそらくそこまでの価値はありません。自費出版で、という道もありますが、それは、自分の我がままな欲求で、新たなモノを作り出すことにもなりかねません。ビットという基本単位で伝達可能な情報を、紙というアトムを基本単位とする形で伝えようとすると、それは新たに余分なモノを作り出すことになります。基本的に、ビットという情報単位で扱えるものは、そのビットのままで利用すれば、無駄な資源(つまり、紙など、アトムで出来たモノ)を消費せず、しかも瞬時に世界的規模で伝達できるのです。
<このあたりの問題については、マサチューセッツ工科大メディア=ラボの創設者 ニコラス=ネグロポンティのベストセラー『ビーイング=デジタル〜ビットの時代』(1995年)の中で、興味深く論じられています。インターネットに興味を持ち始めた頃、デジタル情報化の革命的重要性を教えてくれた貴重な一冊でした。
彼の論ずるところでは、ビットをかさばらないビットのままで、瞬時に、世界中に届けることができる・・それがインターネットの持つ意味だ、というのです。> 

     
一市民の人生の記録は、人に押し付けるほどのものではないでしょう。しかし、このようなデジタルな記録は、モノになりません。でももし、そんな巷の一市民の人生の記録に興味を持って頂ける人が現れれば、いつでも読んで頂けて、しかもモノとして後に残らないと言うのは大きなメリットです。
そういう意味で、ブログという形で人生の記録を残すのも、人に迷惑をかけない人生の後始末(先始末?)の一つになる可能性があるのではないかと、最近思い始めています。

(おまけのおまけ)
始末』というのは、勿論、誤表記ではなく、『始末』から派生させた私の造語です。(これ、あちこちで流行らせて、流行語大賞とかにならないかなぁ・・<笑>)
造語と言えば、このブログ全体のタイトルにしている『シニア院長』というのも、私が、世間でよく使われる『若先生』、『大先生』という言い方が、なんだか尊大な匂いがし、時代がかって仰々しくて、どうしても使いたくなかったので、造った造語でした。
ところが、こういう表記はこれまで無かったらしく、インターネット検索で(松賀歯科等も入れず)『シニア院長』だけで検索をかけても、何とトップ4までが、私のブログのサイトになることに気がつきました。(以前にアメーバブログにも書いていたことを思い出したのは、副産物でしたが)

自分の考え、感覚にこだわる、ということは、結局オリジナリティにつながり、それなりの意味を持つんだなぁ・・と思いました。

         

投稿者:

matsuga_senior

《松賀正考》大阪大学外国語学部英語学科、歯学部卒業。明石市で松賀歯科開業。現シニア院長。 兵庫県立大学大学院会計研究科を卒業し会計専門修士。さらに同大大学院経済学研究科修士課程を卒業。その修士論文で国際公共経済学会の優秀論文賞を受賞。現在、博士課程在学中。