前稿で、パーソナル=コンピューターの黎明期の話を書いて、原始的だった当時の時代状況からの長い付き合いの歴史を懐かしく思い出しました。振り返れば、私はパーソナル=コンピュータというものが、この世界に登場した瞬間から付き合って来たことになります。
その前史は、ちょうど私が二つ目の大学生活を終えて、まさにその卒業の年に開設された徳島大学歯学部に勤務し始めた時代に遡ります。当時(今から振り返ると信じられないことですが)極端な歯科医不足のために、歯科医療の現場は大混乱し、溢れかえる患者さんからの苦情が爆発し『歯の110番』が設置される騒ぎすら起きるような状況でした。このため、厚生省、文部省は急遽、各地の大学に歯学部を大増設する方向に舵を切りました。西日本の国立大学だけでも、広島、岡山、鹿児島大に歯学部が設置され、四国でも唯一の歯学部が徳島大学に設置されることになりました。このため、各大学で、歯学分野の教員の需要が一気に高まりましたが、その供給を創設20数年と先行していた阪大歯学部が引き受ける格好になったようです。ちょうど私は卒業を控え、その後の進路を考え始めた時でした。私としては、そこそこのお給料がもらえて、勤務時間後の自分の時間が取れる職場をと、考えており、燃え盛る火事場のような状況の開業医院に勤めるのは気が進みませんでした。そんな状況の中、阪大から徳島大学に教授として赴任する予定の先生がおられ、助手としてのスタッフを探しておられるという話が流れてきました。徳島県はたまたま私の母の出身地で、親戚の大半も徳島在住という状況でもあり、卒後すぐに大学の助手採用してもらえるという珍しい好条件は、渡りに船、でした。
そんな訳で、私は卒業後すぐ徳島大学に勤務することになりました。ただ、新設の歯学部は、全くの準備段階であり、校舎自体が建築中で薬学部の一部を間借りする状態で、他大学出身の同期入局生4人、さらに翌年入局の3人の計7人と<毎日がコンパ>状態の日々でした。(この当時の同期生とは悲喜こもごもの懐かしい思い出を共有しており、お付き合いは今も続いています)
この年の夏、教授から夏休み中に開催される工学部でのコンピューター講習に参加するように、との指示が出ました。遊び呆けていた同期生5名は、渋々、この講習会に参加したのですが、思えばこれが私のコンピュータの世界との初めての遭遇となりました。当時はもちろん、パーソナル=コンピュータなど、この世に生まれておらず、影も形もありません。当時、コンピュータと言えば、大学やごく一部の大企業などに空調付きの専用室に鎮座まします超貴重な設備機器でした。そんな機器を専用で使うなどあり得ないことで、時間を分け合って各組織が必要な業務に使用させてもらうと言うタイム=シェアリングシステムが常識でした。この貴重な設備の時間を分けていただくために、各組織は、自分の業務に必要なプログラムを作成した後、これをパンチカードという媒体にパンチングして(そのための専門職がいて、パンチャーと呼ばれていました)、このカードの束をメインフレームと呼ばれていた巨大コンピュータに仕える神官のような専門職に渡して、メインフレームの空き時間にご処理いただき、その結果が膨大な巻き紙のような専用紙に打ち出されて、ご返還いただく、という流れでした。雰囲気的に言えば、映画 007 ジェームズ=ボンドの世界、と言えば、当時の映画を知っている方には分かりやすいでしょうか。もう少し時代が下がれば、映画『ミッション インポッシブル』で、ヒーローのトム=クルーズが忍び込む機密ルームのような雰囲気、が近いでしょうか。
この時代を代表する巨大企業と言えば、IBM でした。実は、この IBM とも私は因縁があるのですが、これについては後記します。
で、そのような処理プログラムを作成する講習会が工学部主催で夏休みに開かれており、その講習を受けるようにという話でした。当時、このようなプログラムで、科学技術用には、FORTRANという言語が主流で、このプログラム作成の講習が1週間ほど開かれたのです。高校数学の延長のような数学的基礎演習でしたが、他にすることも無い夏休みの暇つぶしとしては、まあ少し楽しめました。パンチカードの束を持って工学部キャンパスをうろうろした記憶がかすかにあります。
それっきり、コンピュータの世界と縁は無いだろうと思っていたのですが、意外な形ですぐに再会することになりました。この頃、新設歯学部の各講座では、分配される予算で購入する機器の選定が進んでいました。パソコンなどこの世に生まれていない時代、計算機の高級品くらいは要るだろうということで、選ばれたのが、電卓のパイオニアだった SHARP 社から発売されていたプログラム機能付き関数電卓で、当時の価格で100万円位したと思います。これが納品された後、この電卓には、mini-FORTRANという FORTRAN の簡易版が付いていることが分かりました。何か研究らしいことをせよ、と教授から言いつけられていた私が、これはひょっとすると使えるかもしれないと思いついたのが、レントゲン写真の計測プログラムでした。横顔をレントゲン写真(セファログラム)で撮って、解剖学的なポイントを設定し、このポイント間の距離や角度を計測するという手順を当時、手作業で定規と分度器を使ってやっていたのですが、これをもう少し自動化できないか、と考えついたのです。
ポイントの座標軸上の数値が分かれば、この間の距離や角度を計算させることは、このプログラム電卓でもできそうでした。その冬休み、他の医局員らは、それぞれの実家に帰る間、実家の無い私は大学で時間を持て余しており、このプログラム作りで時間を埋めることにしました。FORTRAN の簡易版でも、この程度のプログラムは簡単に出来ました。座標の入力さえ済めば、後はプログラム処理されるのですが、口の悪い同僚たちからは『座標の数値入力の手間を考えたら、一緒やないか』と不評でしたが、形だけでもコンピューター分析と言うことで、教授には大変喜ばれました。座標入力の手間の問題は、後に、プロッターという計測入力機器が開発され、その購入で問題は解決したようです。私は、その1年後、名古屋の三菱病院に転じましたが、私の書いたプログラムはその後も教室で長く使われたようです。ただ、後にも先にも私がプログラミングらしきことをしたのは、唯一このお仕事のみです。後に、開業後10年目位にあたる1996年、今から20年程前のインターネット黎明期、初めて医院のホームページを html という言語を学んで書き始めましたが、この作業に抵抗なく取り組めたのは、この大学助手時代の経験があったからでしょう。インターネットの黎明期で、未だまともなホームページ作成業者もおらず、自ら取り組むしかなかったのですが、お陰で、我が医院は市内で(ひょっとすると県内でも)最初のホームページを持つことになったのでした。
徳島大学での2年、三菱病院での2年の勤務の後、私は1982年夏、明石での開業に踏み切りました。このまさに1982年の10月に国産初のパーソナル=コンピューターとして華々しくデビューしたのが、 NECのPC-9800 でした。それまで、マイコンと称された個人向けのコンピュータらしきものは秋葉原や日本橋の電気街で細々と売られていましたが、マニアックなユーザー向けのボードむき出しのような商品で、専門家の間では、全くのおもちゃ扱いでしかありませんでした。
しかし、このPC9800はそれまでのマニア向けのマイコンとは明らかに一線を画す<個人向けのコンピュータ>の姿をしていました。
そして、この個人向けコンピュータを現実的な仕事に応用できるようなアプリケーション=ソフトが次々に開発・発売され、いよいよ個人向けのコンピュータの世界が開かれ、パーソナル=コンピュータという言葉が社会的にも認知されていったのです。アプリケーションソフトで最初に注目されたのは、当然のことながら、日本語入力のためのワープロ=ソフトであり、地方のベンチャー企業から発売された『一太郎』がベストセラーになりましたが、たまたまこのベンチャー企業は徳島市の企業でした。次に普及が進んだのは、コンピュータ処理に向き、コンピュータの能力が遺憾なく発揮される表計算ソフトでした。そして、実質的処理はほとんどそれと変わらず、しかも小規模ビジネス向けに汎用性があり、大きな需要が見込める分野が会計処理ソフトでした。当時、何社かのベンチャー的企業から会計ソフトが競うように発売され、その中から、最も高価格ながら、最も高機能と思われた(株)ミルキーウェイの大番頭なるソフトを早速購入することになります。
( T-Rex も、小動物も現れたばかりですが、既に、かなりの量の記載になりました。中仕切りをして、続編は次稿にしたいと思います。)
<おまけの後記>
パソコンという小動物の群れに倒されるまで、コンピュータの世界では、メインフレームという巨大コンピュータが群雄割拠していた時代でした。その中でも、最強の巨大企業として、世界を席巻し、圧倒的な存在感を持っていたのが、 IBM でした。今で言えば、 IT 界の雄、 Google のような存在、いやそれ以上だったかもしれません。
この T-Rex (ティラノザウルス)のような恐竜企業が、パソコンという小動物の群れに蝟集されて、ついには圧倒される時代の移り変わりを私はその場に立ち会ったかのように、まざまざと目にしたわけですが(もちろん、IBM 社は今も健在であり、 IT 界の一角を占めて活躍中ですが、かつてのような巨大な存在感はもはやありません)、この企業との因縁はそれだけではありません。
実は、前々稿で書いたように、私は、大阪外大の卒業を自主留年して1年延期し、歯学部受験に賭けたのですが、夢を追いかけるガチガチの原理的理論派に見えて、実はチョー現実派でもあった私は、歯学部受験に集中する一方で、リスク対策も怠らず、母親が亡くなった後、一応リクルート活動もし、この IBM という巨大外資企業を受験し、その内定も取り付けていたのです。どういう理由だったのかは今もナゾですが、東京本社の会計課への配属の予定で、東京赤坂のオフィスでの会計課チーフの直接面接も済ませ、内定をもらっていました。赤坂というオシャレな地名と外資系らしい瀟洒なオフィスの雰囲気をかすかに記憶しています。
歯学部受験が上手く行かなければ、私は、IBM社で英文会計の世界に入ることになっていたわけで、現在の会計学大学院での勉強との不思議な因縁を感じます。当時の IBM は圧倒的な業界支配力を持つ世界企業として永遠の繁栄を続けるものと思われ、日本の大手企業のような丸抱えの福利厚生システムは無い代わりに、給与は当時の一般企業の平均水準より2、3割高く、学生の志望企業ランキングの上位常連会社だったと思います。
しかし、私は当時の沸騰するような高度経済成長の中で戦う企業戦士になることを忌避して、まんまと敵前逃亡し衛生兵の訓練所に逃げ込んだのでした。IBMさん、ごめんなさい。もう時効だと思うので、お許し下さい。