<現役時代の旧ホームページからの移植です>(2001.9.25日分)
➖現地でのメール記録をもとに➖
今春長男が母校の歯学部に入学し、ストレス 多く時間に追われるこの開業医生活を将来引き 継いでやろうという殊勝な人間の出現に、私は 早々と<優雅なセミ=リタイア計画>を描き始 めました。もともと文系学部卒業後、歯学部に 入学した変わり種であった私の人生計画では、 (不謹慎を承知であえて言えば)この<苦しき ことのみ多き>開業医生活も、別のある夢への ステップボードと考えていたふしもあり、さあ いよいよだ!と勢い込んではみたものの、さて 何から手を着けていいものやら、何はともあ れ、出身の英米語学科の本場へ行ってみるべ え、と夏休み明けの季節、のんびりとした(は ずの)ニューヨークツアーに出かけました。 9 月11日、世界中を恐怖と不安の渦の中に叩き込 んだあのニューヨークテロ事件の朝、お上りさ んツアー中の私は、まさにあの世界貿易セン タービルに向かう地下鉄の電車に乗っており、 突然の停車と充分に聞き取れない駅のアナウン スに訳の分からないまま、地上に出、目の前で 繰り広げられる白昼夢のような光景を前に呆然 と立ち尽くしておりました。
そんな訳で「いよいよ我が人生のメインス テージの開幕だ!」と勢い込んで出かけた初の 米本土ツアーはスリルと波乱に満ちた『命から がらツアー』と化しました。しかし、あたかも 台風の目の中に入ったような地元の広大な公園 や大学キャンパス、美術館などのゆったりした 雰囲気は、騒然たる状況と隣り合わせだっただ けにより印象深く、複雑な現代社会を象徴する 巨大国家アメリカの懐の深さをあらためて実感 させるものであったと思います。
(大事件のあった9.11当日の午後の平穏なセントラル=パーク)
帰国後、その経験について原稿を書けとのお 話をいただきましたが、へたに文章を作り直す より、当時の国内とのメールのやり取りを読ん でいただく方が状況を伝えやすいのではとは考 えました。以下は、その茫然自失ツアーのメー ル記録です。 最後に、今回の悲惨な事件によって失われた 多数の犠牲者とそのご家族に心からの哀悼の意 を捧げ、拙文を終えたいと思います。
2001年 9 月17日 月曜日 6 :57:13 AM 差 出 人:m松賀/明石 タイトル:WTC テロ事件の現場報告 宛 先:j情報調査室2000
m明歯情報委員会
z雑談ルーム
緊張のニューヨークから何とか帰国いたしま した。一昨日の午後からニューヨークの空港が ようやく再開し始め、昨日の朝のデトロイト経 由便で定刻の 1 時間遅れの午後 5 時前に関空に 着きました。ニューヨークの空港は物々しい警 備で、至る所立ち入り禁止、公衆電話すら機能 停止されていましたが、デトロイトまで来ると 普段と変わらず、呑気に公衆電話に PC をつない で何十分も仕事をしているビジネスマンの姿も ありました。 このメールを現地から送ろうと思いました が、あんまりにも生々しくて、余計な心配をか けるといけないので、帰国してから出すことに しました。
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実は、あのテロ事件があった11日の朝、私は 午前中空いていた時間を利用してマンハッタン 南部の観光地にでも行こうと考え、ホテルでの 朝食を済ませた後、タイムズ=スクウェア近く の駅から地下鉄に乗り、まさにあの事件の現場 となったワールド=トレード=センター方面に 向かう路線の電車に乗っておりました。半分く らい南下した頃、地下鉄の電車の電灯が急に点 滅し、突然の停車を 3 、 4 度くり返しました。 アメリカの地下鉄は頼りないなあ・・とぼんや りしていると、聞こえにくい車内案内放送の中 に Explosion という言葉が何度か出て来たように 思いました。地下鉄関係の施設内で爆発事故で もあったんだろうか、ちょっとやばいなあ、と 思い始めているとついにある駅で停車したまま 長時間の停車状態に入りました。どうやら事故の発生のため先には行けないという状況のよう でした。アナウンスの言葉の中には少し先の駅 名が出ており、その電車はしばらくして発車し ましたので、もう少し先までは運行したようで すが、乗り換えや引き返すことを考えて、その 駅で地下鉄をおりました。 地上に出て、辺りを見回していると、空に煙 りが広がっており、その先をたどって行くと何 やら大きな建物の上部近くから火が出て猛烈な 勢いで煙りが上がっています。あんなでかい建 物で火災かあ、それにしてもでかい建物だな あ、と思いながらよく見ると、同じ形の建物が 2 つ並んでおり、その 1 棟から猛烈な火と煙り が出ています。どこかで見た建物だなあ、と考 えるうちにようやくそれが、ガイドブックにも 出ている有名なワールド=トレード=センター であることに気がつきました。辺りはまさに騒 然としており、パトカーのサイレンがけたたま しく鳴り響き、救急車が激しく行き来し、近く の店やオフィスから飛び出した人たちが路上に 溢れ、すぐそばの巨大なビル火災を見ながら興 奮気味に言葉を交わしていました。私もその群 集の中で、唖然として火災現場を眺め思わずカ メラのレンズを向けていたのですが、その時突 然群集の中から悲鳴のような叫びが起きまし た。一瞬何の騒ぎなのか分からず、辺りをみま わし、再び建物に目をやると、さっきまで燃え 盛っていた建物の上部がなんと崩壊し消え去っ ていたのでした。 まるで白昼夢をみているようでした。ハイ ジャックされた民間機が衝突した、ということ は、その日の夜まで分かりませんでしたので、 その爆発が航空機の衝突で起きたということは 分かりませんでした。ただ、そういえば、その 直前、建物のごく近くを航空機が 1 機飛んでい てその航跡が不自然な感じがしたのをぼんやり 覚えているような気がします。しばらくする と、群集の中から再び大きな悲鳴が何度か繰り 返し上がりました。建物の方に目を向けると、 残っている建物の盛んに火を上げている付近から小さな黒い物体が落下しています。火災によ る破片が飛んでいるように見えていたのです が、それが逃げ場を失った人が飛び下りている のだ、ということに気がついた時、さすがに背 筋が寒くなりました。あの高さから飛び下り て、助かるはずがないのは明らかでした。路上 の群集の中には泣き崩れている女性や涙を流し ながら祈りの言葉を捧げている人の姿が見えま した。行き交うパトカー・救急車・消防車の数 はますます増え続け、路上の群集も膨らみ、さ らには火災の煙りが近付いてくる気配がしてき て、ようやく、これはヤバい!と気がつきまし た。
とにかくホテルのある市内中心部に戻る必 要があると考えましたが、再び地下鉄を利用す る気は起きず、タクシーを探しましたが、通り 過ぎるタクシーは当然のことながら人を乗せて おり、空車は見当たりません。意を決して、北 に向かって歩き出しました。北に向かう路上は 同じ思いの人たちの群れが流れて溢れんばかり でした。途中、コーヒーで一息つきたいと思い 喫茶店に入ろうとしましたが、 1 軒目は早くも 臨時休業に入っており、次に入った店は閑散と した雰囲気の中を(おそらくラテン系住民の居 住地域だったのでしょう)スペイン語の放送が 大音響で流れていました。歩き続けるうちに、 徐々に街の雰囲気も落ち着きはじめ、歩き始め て 2 時間もたったでしょうか、中心部のタイム ズスクウェア付近まで来て、まるで何ごともな かったかのような日常的光景が広がっているの を見て、ようやく深い安心感が心に広がってい くのを感じました。 ホテルの部屋に帰って一息ついて、あらため て考えてみると、大事件のあったワールドト レードセンターは、その日の観光予定の一つで あり、その日の朝、やや寝坊気味で起き、 ちょっと迷いながらも、結局ホテルのカフェで ゆっくりした朝食を取って出かけなければ、最 悪あの事件に巻き込まれていたかもしれなかっ たこと、建物の中にはいなくても、南端まで着いてしまっていれば、帰り道が閉ざされ、大混乱の中に取り残されていたかもしれないことに気がつきました。日本からのメールで指摘された通り、あの阪神大震災とこの衝撃的なテロ事件の両方を直接体験する、という珍しい経験の持ち主になってしまいましたが、そのどちらでも直接的な大きな被害を負わなかった悪運の強さには感謝するしかありません。遥か日本からいろいろ御心配いただいたことに感謝申し上げます。以上珍しい体験の現地報告と御礼まで。(メールここまで)
< ニ ュ ー ヨ ー ク イ ン タ ー ネ ッ ト 事 情 >
実は今回、同じヒルトン系列のホテルを2つ 泊まったのですが、最初のホテルでは、部屋の TVにキーボードが付いており、このTVがイ ンターネットにつながっていて、普通の放送以 外にインターネットのホームページが見られる ようになっていました。但し、このTV画面上 では日本語表示ができず、日本語のページを見 ると暗号のような表示になってしまいました。 しかし、同時に普通のパソコンを持ち込んで つなぐと高速の常時接続ができるコネクターも 別にあり、私の場合、ノート型のパソコンを持 参しており、このパソコン上では通常の日本語 表示ができました。この持ち込みのパソコンで の接続料が最初のホテルでは1日700円位の料金 でしたが、後のタイムズ=スクウェアのホテルで は、何と無料でした。 これらの状況にすごいなあ、と感心していた のです(*)が、というのは、私はホテルの部屋の 通常の電話線を通して、現地のインターネット 接続業者の番号にコンピュータから電話をか け、現地の市内通話料金でインターネットを利 用しようと考え、そのための契約(国際ローミ ングサービス契約)をして出かけたわけです が、例の事件前までは、この形の利用は不要 だったわけで、しかも高速で24時間つながって いるサービスをホテル側が用意していたわけですから。 ところが、あの事件のあった11日の夜10時く らいから、この接続が不可能になってしまいま した。フロントに聞いてみると、理由は告げら れず、現在シャット=ダウンしているとの返事だ けでした。 あの状況の中では、遥かな日本との 連絡メール、航空機の運行状況等々についての 情報収集のための不可欠な手段として、イン ターネットは言わばライフラインの一つでした から、あわてて接続方法を切り替えて旅行前か ら準備してきた国際ローミングサービスによる 現地の接続業者への通信先につなごうとしまし たが、これもまた不通状態でした。 推測ですが、おそらくこの時点で、ニュー ヨーク市内のインターネット接続に関して何ら かの規制がかかったのではないかと思われます (**)。つまり、あの時点では、まださらなるテロ 活動が起こされる可能性があり、その連絡にイ ンターネットが利用されると懸念されたので しょうか。さて困ったぞ、と考えて、結局普段 自分が日本で利用している日本の接続業者の接 続先に国際電話経由でつなぐことを思いつきま した。これはちょっと理由が分からないのです が、当初この接続すらうまくいきませんでし た。一夜明けた翌12日の朝7時くらいにようや くこの形の接続が成功しました。それにして も、アメリカ現地の航空会社のホームページ等 を見るために、わざわざ日本の接続点まで国際 電話経由でつないで、アメリカ現地の情報収集 をしたわけですから、考えてみれば随分変てこ りんな形を取らざるをえなかったわけです。 12日の深夜というか、13日の早朝になってよ うやく、アメリカ現地の接続点での利用が可能 になりました。この時点で初めて、旅行前に準 備してきた国際ローミングサービスが可能にな りました。国際電話経由の時は、何しろ、分刻 みで100円硬貨が落ちていく感じがして、接続時 間がきわめて高価で貴重な感覚がありました が、地元につなぐと確か1通話25セントでした
から(但し、ホテルの館内通話サービス料が追 加されましたが)やっと落ちついてインター ネット利用ができる状況になりました。砂漠地 帯で水の一滴が金一粒だったのが、ようやく水 道のある所に来た、というような感覚、と言え ば大げさでしょうか。 結局、帰国のためホテルを出た時点まで、ホ テルの高速常時接続は使えませんでした。 ニューヨークの空港でも公衆電話が使えない状 況でしたから、テロ対策として、非居住者の情 報通信手段を閉鎖したのでしょうね。マンハッ タン島(ご存じのようにマンハッタンは一つの 島です)へ出入りする道路が厳重な管理下に置 かれ、殊に外部からの流入がほとんどストップ されていた状況と同質の規制が情報流通の世界 でも行われたわけで、いろいろ考えさせられる ものがありました。 それにしても、インターネットがいかに我々 の日常生活に深く入り込んでいるかをあらため て実感した経験でもありました。 阪神大震災の時、緊急事態時のフレキシブル な情報伝達手段として、インターネットの有用 性が日本で初めて脚光を浴びたように感じまし たが、今回はその有用性が両刃の剣として重視 され、一部規制さえされた、というのは、それ だけインターネットが我々の生活の中で抜き差 しならぬ位置づけを持ち、道路と同じく社会的 インフラになりきっているという証拠と言える でしょうね。
<注:(*)この種ののサービスは日本のホテルで も例えば地元のポートピアホテル等でも始めて いるようです。(**)当時のニューヨークのイン ターネット状況についての詳しい筋からの情報 では、あの事件の後、政府関係の厳しいメール チェック(一種の盗聴)が行われたようで、そ のため、トラフィック(メールの流通)が極端 に低下し、事実上、インターネットが利用でき ない状況に陥った、というのが真相だそうで す。>
兵庫県歯科医師会 会報
歯界月報 2001年10月(603号)掲載